エンレスト®
サクビトリルバルサルタンナトリウム水和物
主な適応症
- 慢性心不全
- 高血圧症
⚡ 30秒でわかる
サクビトリルバルサルタン
(エンレスト®)
開発の経緯
2015年FDA承認、心不全治療に革命をもたらした初のARNI
30年間不動だったACE阻害薬の牙城を崩した。
作用機序
ネプリライシン阻害+ARBの二重阻害メカニズム
①ネプリライシン阻害でナトリウム利尿ペプチド(BNP、ANP等)を増加
②バルサルタンでAT1受容体をブロック。
臨床での位置づけ
2025年心不全診療ガイドラインでの推奨度:HFrEF(クラスI)>HFmrEF(クラスIIa)>HFpEF(クラスIIb)
HFrEFでは基本となる4種類の薬剤の中核として第一選択。
一方、HFpEFでは有意差なし。
HFpEFの第一選択はSGLT2阻害薬(クラスI推奨)となっている。
他の薬との違い
従来のACE/ARB単独療法を超える効果。
死亡率20%減、心不全入院21%減。
「安定しているからこそ切り替える」が新常識。
基本となる4種類の薬剤の中核薬。
サクビトリルバルサルタンの作用機序
1. 薬物の解離と活性化
サクビトリルバルサルタンは1:1の分子比で結合した複合体製剤で、経口投与後に速やかに2つの成分に解離します。
- サクビトリル:プロドラッグとして吸収され、エステラーゼにより活性体のサクビトリラート(LBQ657)に変換
- バルサルタン:そのまま活性体として作用
この独特な製剤設計により、単一の錠剤で2つの異なる作用機序を同時に発揮できます。両成分の血中濃度は投与後1-2時間でピークに達し、安定した薬効を示します。
2. ネプリライシン阻害作用(サクビトリル由来)
ネプリライシンは心保護的なペプチドを分解する酵素です。サクビトリラートはこの酵素を阻害することで、BNP(脳性ナトリウム利尿ペプチド)などの心保護ペプチドを増加させます。
BNPは心不全の検査値として知られていますが、実は利尿作用、血管拡張作用、心筋保護作用を持つ重要なホルモンです。通常はネプリライシンによってすぐに分解されてしまいますが、サクビトリルがこれを阻害することでBNPが増加し、心保護作用が強く発揮されます。
3. ARB作用(バルサルタン由来)
バルサルタンはARB(アンジオテンシンII受容体拮抗薬)として、血管拡張作用や心臓への負担軽減をもたらします。
重要なのは、ネプリライシン阻害でアンジオテンシンIIも増加するため、バルサルタンが必須である点です。ネプリライシンを阻害するだけではアンジオテンシンIIが蓄積して有害ですが、バルサルタンがこれをブロックすることで、安全にBNPの増加効果を得られます。
4. 相乗効果メカニズム
サクビトリルバルサルタンの最大の特徴は、「守り」と「攻め」の両方を同時に行うことです。
- 「守り」:バルサルタンが有害なアンジオテンシンIIをブロック
- 「攻め」:サクビトリルが心保護的なBNPを増加
従来のACE阻害薬やARBは「守り」だけでしたが、エンレストは両方を行うことで、心血管死亡率20%、心不全入院21%減少という大きな効果を示しました。
⚠️ エンレストはACE阻害薬から36時間空ける
理由:ネプリライシン阻害とACE阻害の両方でブラジキニンが増加し、血管浮腫のリスクが上昇します。
切り替え手順:ACE阻害薬中止 → 36時間待機 → エンレスト開始
ARBからの切り替え:待機時間不要、翌日から開始可能
❓ 薬学生からよくある質問
Q: ACE阻害薬からエンレストに切り替える時、なぜ36時間待つ必要があるの?
A: ACE阻害薬の半減期は約12時間、3半減期(36時間)で血中濃度が十分低下。
この期間内にエンレストを使うと、ネプリライシン阻害作用が重なり、血管浮腫のリスクが著しく上昇。(詳しくは研修編で)
Q: 二重阻害って何がすごいの?
A: ARB(バルサルタン)で有害な作用をブロックし、ネプリライシン阻害薬(サクビトリル)で有益なペプチドを増やす。
1+1=3の相乗効果で、ACE阻害薬よりも心血管死を20%減少。
Q: 心不全治療の「基本となる4種類の薬剤」とは何ですか?
A: 心不全治療の4本柱:①ARNI(エンレスト)②β遮断薬 ③SGLT2阻害薬 ④MRA。
4つを組み合わせることで、死亡率50%以上減少、再入院60%以上減少。
Q: なぜエンレストは心不全と高血圧で投与回数が違うの?
A: 心不全では1日2回(朝夕)、高血圧では1日1回(朝)です。
心不全では神経体液性因子を24時間継続的に抑制する必要があるため、1日2回投与が必須。夜間も含めて心保護作用を維持することが重要です。
一方、高血圧では主に日中の血圧コントロールが目的なので、1日1回投与で十分な効果が得られます。
💡 処方を見たら、まず「1日何回か」を確認。1日2回なら心不全、1日1回なら高血圧の治療です。
🔬 ネプリライシン阻害が心不全を改善する理由
ネプリライシンとは何か
ネプリライシンは中性エンドペプチダーゼ(NEP)とも呼ばれる酵素で、腎臓、肺、血管内皮に広く存在します。
この酵素は心保護作用を持つペプチドを分解してしまうため、心不全患者にとっては「邪魔者」となります。
サクビトリルはこのネプリライシンを阻害することで、心保護ペプチドの血中濃度を上昇させ、心不全を改善します。
増加する心保護ペプチドの種類と作用
ANP(心房性ナトリウム利尿ペプチド)
- 心房の伸展により分泌される
- ナトリウムと水の腎排泄を促進
- 血管拡張作用により血圧を低下
- 通常はネプリライシンによって半減期2-3分で速やかに分解される
BNP(脳性ナトリウム利尿ペプチド)
- 心室の伸展により分泌される
- ANPより強力な利尿作用を持つ
- 心筋リモデリング抑制作用
- 心不全の重症度マーカーとしても使用される
その他の有益ペプチド
- アドレノメデュリン:血管拡張と抗炎症作用
- CNP(C型ナトリウム利尿ペプチド):血管拡張と抗線維化作用
- ブラジキニン:血管拡張作用(ただし過剰蓄積は血管浮腫のリスク)
なぜペプチド増加が心不全を改善するか - 4つの機序
1. 前負荷の軽減
ナトリウム利尿ペプチドの利尿作用により体液量が減少します。
これにより静脈還流量が減少し、心室充満圧が低下します。
結果として心臓への前負荷が軽減され、うっ血症状が改善します。
2. 後負荷の軽減
血管拡張作用により末梢血管抵抗が減少します。
動脈圧が低下することで、心室が血液を押し出す際の抵抗が減少します。
これにより心仕事量が減少し、心臓への負担が軽減されます。
3. 心筋保護作用
心保護ペプチドは直接的に心筋細胞を保護します:
- 心筋線維化の抑制により心臓の硬さを改善
- 心筋肥大の抑制により心機能を維持
- アポトーシス(細胞死)の抑制により心筋細胞を保護
- 心筋リモデリングの改善により長期予後を改善
4. 神経体液性因子の改善
心不全では交感神経系とRAAS系が過剰に活性化され、悪循環を形成します。
ナトリウム利尿ペプチドはこれらの過剰活性を抑制し、悪循環を断ち切ります。
特にcGMP(環状グアノシン一リン酸)を介した細胞内シグナル伝達により、
交感神経活性とアルドステロン分泌を抑制し、長期予後を改善します。
💊 なぜARB(バルサルタン)との配合が必須なのか
ネプリライシンの二面性 - アンジオテンシンIIも分解する
ネプリライシンは心保護ペプチド(ANP、BNP)を分解する一方で、実はアンジオテンシンIIも分解しているという重要な役割があります。
アンジオテンシンIIは、RAAS系(レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系)の中心的な物質で、以下の作用を持ちます:
- 血管収縮作用 → 血圧上昇
- アルドステロン分泌促進 → ナトリウム・水の貯留
- 心筋肥大・線維化促進 → 心リモデリング悪化
- 交感神経活性化 → 心拍数増加、不整脈リスク
サクビトリル単独使用の問題点
もしサクビトリル単独でネプリライシンを阻害すると:
有益な効果(期待される作用)
- ANP、BNPの分解抑制 → 心保護ペプチド増加 ✓
- 利尿作用、血管拡張作用 ✓
有害な効果(問題となる作用)
- アンジオテンシンIIの分解も抑制 → アンジオテンシンII蓄積 ✗
- 血管収縮、心筋肥大が進行 ✗
- せっかくの心保護効果が相殺される ✗
つまり、「アクセル(心保護ペプチド)とブレーキ(アンジオテンシンII)を同時に踏んでいる状態」になってしまいます。
ARB(バルサルタン)配合による解決
バルサルタンはAT1受容体拮抗薬として、アンジオテンシンIIの作用をブロックします:
二重阻害の相乗効果
- サクビトリル:心保護ペプチド(ANP、BNP)を増加させる
- バルサルタン:アンジオテンシンIIの有害作用を遮断する
- 結果:有益作用のみが発現し、有害作用は抑制される
RAAS系への作用
- AT1受容体をブロック → 血管収縮を抑制
- アルドステロン分泌を抑制 → 体液貯留を防ぐ
- 心筋リモデリングを抑制 → 長期予後改善
🇯🇵 日本でのARNI導入と急速な普及
世界から5年遅れた日本承認(2015-2020)
2015年、PARADIGM-HF試験の圧倒的な結果を受けて、FDAとEMAは同年中にサクビトリル/バルサルタンを迅速承認しました。しかし日本での承認は2020年と、世界から5年遅れとなりました。
この遅れの背景には、日本独自の薬事規制がありました。日本では海外データだけでは承認されず、PARALLEL-HF試験という日本人225例を含むアジア人対象の大規模試験が新たに要求されたのです。さらに、日本人の体格や薬物代謝を考慮し、開始用量は50mg×2回/日(欧米の半分)に設定され、慎重な用量設定での安全性確認が行われました。
承認後わずか5年で標準治療へ(2020-2025)
2020年8月の承認後、エンレストは驚異的な速さで日本の心不全治療を変革しました。
導入期の2020-2021年は、循環器専門医が中心となって慎重に導入が進められました。特にACE阻害薬からの切り替えにおける36時間のwashout periodの重要性が繰り返し強調され、安全な切り替えプロトコルが確立されていきました。
2022-2023年の普及期には、「心不全パンデミック」という言葉が広まる中、エンレストは急速に処方数を伸ばしました。「基本となる4種類の薬剤」という新しい治療概念が浸透し、循環器専門医だけでなく一般内科医にも使用が広がり、年間処方患者数は10万人を突破しました。
2024年以降の標準化期に入ると、エンレストはHFrEF治療の第一選択薬として完全に定着しました。「安定しているからこそ切り替える」が合言葉となり、ACE阻害薬やARBで安定している患者でも積極的な切り替えが推奨されるようになりました。薬剤師も服薬指導の中核を担い、36時間ルールの確認や併用薬チェックなど、安全な導入を支える体制が確立されています。
📖 日本循環器学会ガイドラインでの位置づけ(2025年3月改訂版)
心不全タイプ別の推奨度
2025年3月28日に発表された最新ガイドラインでは、左室駆出率に応じて以下の推奨度が設定されています:
- HFrEF(LVEF ≤40%):
ACE阻害薬/ARBからの切り替え:Class I, Level B-R(強く推奨)
急性非代償性心不全安定後の第一選択:Class IIa, Level B-R(推奨) - HFmrEF(LVEF 41-49%):有効性が期待される
- HFpEF(LVEF ≥50%):Class IIb, Level B-R(考慮してもよい)
特にHFrEFでは、ACE阻害薬/ARBで安定していても、積極的にARNIへの切り替えが推奨されています。
日本人では50mg×2回/日から開始し、200mg×2回/日まで漸増します。
基本となる4種類の薬剤の中核薬として
2025年ガイドラインでは、HFrEFの標準治療として「基本となる4種類の薬剤」が推奨されています:
- ACE阻害薬・ARB・ARNI(エンレスト):神経体液性因子の改善
- β遮断薬:交感神経抑制
- SGLT2阻害薬:心腎保護
- MRA(ミネラルコルチコイド受容体拮抗薬):アルドステロン拮抗
これら4剤の早期併用により、心血管死や心不全入院を大幅に減少させることが期待されています。
各薬剤は忍容性がある限り、できるだけ早く導入し、目標量まで増量することが最も重要です。
切り替えのタイミングと注意点
ACE阻害薬からの切り替え
- 36時間のwashout期間が必須
- 最終服用から36時間経過後にエンレスト開始
- 血管浮腫のリスクを回避するための必須事項
ARBからの切り替え
- washout期間は不要
- 翌日からエンレストへ切り替え可能
- 同じARB成分(バルサルタン)を含むため
🔬 なぜサクビトリル単剤ではいけないのか
オマパトリラットの衝撃的な失敗(2000-2002)
2000年代初頭、オマパトリラット(omapatrilat)というネプリライシン阻害薬兼ACE阻害薬が、心不全治療の歴史を変える画期的な薬剤として期待されていました。ナトリウム利尿ペプチドの分解を阻害しつつ、同時にACEを阻害することでRAAS系も抑制するという、理論的には完璧なメカニズムでした。
2001年に報告されたOVERTURE試験では、5,770例の心不全患者を対象に、当時の標準治療であるACE阻害薬(エナラプリル)と比較されました。結果は衰撃的でした。主要評価項目では有意差を示せず(HR 0.94, P=0.187)、効果の面でACE阻害薬を上回ることができませんでした。
しかし、本当の問題は安全性にありました。血管浮腫の発生率が5.0%と、対照群の0.7%に比べて60.5%も増加したのです。特に黒人患者では重篤な血管浮腫のリスクが著明に高く、生命を脅かすレベルの副作用が相次いで報告されました。結果として2002年、FDAは安全性の懸念から承認を拒否し、オマパトリラットの開発は中止されました。
ブラジキニン - 諸刃の剣の薬理学
オマパトリラットの失敗の核心にあったのがブラジキニンというペプチドです。ブラジキニンは9個のアミノ酸からなる小さなペプチドで、通常は数分で分解される短寿命のメディエーターですが、心血管系において重要な決定力を持ちます。
ブラジキニンの生理的作用(良い面)
- 血管拡張:血管平滑筋を弛緩させ、血圧を低下させる
- ナトリウム排泄促進:腎臓でのナトリウム排泄を促し、循環血液量を減少させる
- 抗線維化作用:心筋の線維化を抑制し、リモデリングを改善
- 内皮機能改善:NO産生を促進し、血管内皮の機能を保護
ブラジキニンの過剰蓄積の危険性(悪い面)
- 血管浮腫:血管透過性が亢進し、顔面、舌、喉頭が腫れる(窒息の危険)
- 空咳:気道の知覚神経を刺激し、慢性的な乾いた咳を誘発
- 低血圧:過度な血管拡張による起立性低血圧、めまい
- 炎症反応:サブスタンスPと同様に疼痛伝達、炎症反応を増強
ブラジキニンの3つの分解経路
ブラジキニンが問題となるのは、その分解経路が複数存在し、それぞれの経路を阻害する薬剤が心不全治療に使われるからです。
1. ACE(キニナーゼII)による分解 - 最も重要な経路
ACE(アンジオテンシン変換酵素)は、アンジオテンシンIをIIに変換する酵素として有名ですが、実はキニナーゼIIとしてブラジキニンの約60-70%を分解する重要な役割も担っています。
ACE阻害薬を使用すると、アンジオテンシンIIの産生を抑制する良い効果と同時に、ブラジキニンの分解も阻害してしまいます。これがACE阻害薬で空咳が10-20%の患者に発生する理由です。
2. ネプリライシンによる分解 - 約20-30%を担当
ネプリライシンは、ナトリウム利尿ペプチド(ANP、BNP)を分解する主要な酵素ですが、同時にブラジキニンも分解します。通常状態ではブラジキニン分解の20-30%を担っています。
ネプリライシンを阻害すると、有益なナトリウム利尿ペプチドが増加する一方で、ブラジキニンも蓄積します。これ単独では大きな問題になりませんが、ACE阻害薬と併用すると問題が発生します。
3. その他のペプチダーゼによる分解 - 約10%
アミノペプチダーゼ、カルボキシペプチダーゼなどの酵素が残り10%程度を分解します。これらは通常の薬剤では阻害されないため、バックアップとして機能します。
オマパトリラットの失敗からARBへの着地
オマパトリラットが失敗した理由は明確でした。ACE阻害作用とネプリライシン阻害作用が同時にブラジキニン分解を阻害し、相乗的にブラジキニンが蓄積したからです。
オマパトリラットの場合:
ACE阻害(70%の分解をブロック)+ ネプリライシン阻害(30%の分解をブロック)
= 90%以上のブラジキニン分解が阻害 → 血管浮腫発生!
この失敗から学んだ研究者たちは、ネプリライシン阻害薬の相手としてARB(アンジオテンシンII受容体拮抗薬)を選びました。ARBが選ばれた理由は明確です:
ARBが選ばれた3つの理由
- ブラジキニン系に影響しない
ARBはAT1受容体を直接ブロックするだけで、ブラジキニンの分解には一切関与しません。ネプリライシン阻害でブラジキニン分解が30%減っても、ACEやその他の酵素が残り70%を処理できます。 - アンジオテンシンII蓄積への対処
ネプリライシンはアンジオテンシンIIも分解するため、ネプリライシン阻害でアンジオテンシンIIが蓄積します。ARBはAT1受容体をブロックするため、この問題を完全に解決できます。 - 空咳の副作用がない
ACE阻害薬では10-20%の患者に空咳が発生しますが、ARBではこの副作用がほとんどありません。患者の服薬アドヒアランスが良好です。
こうして、サクビトリル(ネプリライシン阻害薬)とバルサルタン(ARB)を組み合わせるARNIのコンセプトが生まれました。研究の結果、サクビトリル97mg:バルサルタン103mgという特殊な比率が、両成分の薬物動態と作用バランスの最適化において理想的であることが明らかになりました。
サクビトリル/バルサルタン(ARNI)の場合:
ネプリライシン阻害(30%の分解をブロック)+ ARB(ブラジキニンに影響なし)
= 70%のブラジキニン分解は維持 → 血管浮腫リスク最小限!
📖 PARADIGM-HF試験から日本承認まで
PARADIGM-HF試験の衝撃(2014年)
オマパトリラットの失敗から学んだノバルティスは、2007年にLCZ696(サクビトリル/バルサルタン)の開発に成功しました。そして2014年、運命のPARADIGM-HF試験の結果が発表されます。
8,442名という史上最大級の心不全患者を対象に、ゴールドスタンダードであるエナラプリルと比較したこの試験は、医学界に衝撃を与えました。
PARADIGM-HF試験の驚異的な結果
- 主要評価項目(心血管死または心不全入院):20%減少(HR 0.80, P<0.001)
- 心血管死:20%減少(HR 0.80, P<0.001)
- 全死亡:16%減少(HR 0.84, P<0.001)
- 心不全初回入院:21%減少(HR 0.79, P<0.001)
- NNT:21(心血管イベント1件予防に21人の治療で十分)
特に重要なのは、血管浮腫の発生率が0.2%で、エナラプリルの0.1%と有意差がなかったことです。ブラジキニン問題が解決されたことを示しています。
FDAの迅速承認(2015年7月)
PARADIGM-HF試験の圧倒的な結果を受けて、FDAは2015年7月7日、異例の早さでサクビトリル/バルサルタンを承認しました。
この薬剤は以下の3つの特別指定をすべて獲得した極めて稀な薬剤です:
- Fast Track指定:重篤な疾患の未充足ニーズに応える薬剤として、FDAとの頻繁な協議と迅速開発が可能に
- Breakthrough Therapy指定:既存治療を実質的に上回る画期的治療薬として、FDAの集中的な開発支援を獲得
- Priority Review:通常12ヶ月の審査期間を6ヶ月に短縮、患者への早期アクセスを実現
これら3つを同時に獲得することは、FDAが「この薬は心不全治療のゲームチェンジャーである」と認めた証です。実際、申請から承認までわずか6ヶ月という異例の速さで承認されました。
日本での承認までの5年(2015-2020)
日本では海外データだけでは承認されず、日本人を含むアジア人での試験が要求されました。PARALLEL-HF試験では、日本人225例を含むアジア人621例を対象に、50mg×2回/日(欧米の半分)から開始する低用量設定で検討されました。
結果はNT-proBNPが30%低下し、日本人の体格でも安全性・有効性が確認されました。こうして2020年8月、世界から5年遅れて日本でも承認され、現在では年間10万人以上の患者に処方される標準治療薬となっています。
日本の承認条件
- 開始用量:50mg×2回/日(体格に配慮)
- 最大用量:200mg×2回/日
- 36時間washout:ACE阻害薬からの切り替え時必須
- 適応:慢性心不全(HFrEF)
🌍 ARNIが心不全治療の新時代を拓いた
オマパトリラットの失敗から学び、ブラジキニン問題を解決したサクビトリル/バルサルタン。PARADIGM-HF試験で証明された圧倒的な有効性は、世界の心不全治療を根本から変えました。
ブラジキニンの教訓が生んだ革新
2000年代初頭、オマパトリラットは血管浮腫という重大な副作用により開発中止に追い込まれました。その原因はブラジキニンの過剰蓄積でした。この失敗から研究者たちは、ネプリライシン阻害薬の相手として、ブラジキニン系に影響しないARBを選択。この決断が、心不全治療における最大のブレークスルーをもたらしました。
世界が認めた新しいスタンダード
主要ガイドラインでの位置づけ(2025年現在)
- 欧州心臓学会(ESC)2021
HFrEFでACE阻害薬/ARBからの切り替え:Class I, Level B
「安定している患者でも積極的にARNIへ切り替える」と明記 - 米国(ACC/AHA)2022
HFrEFでACE阻害薬/ARBからの切り替え:Class I, Level B-R
ARNIをRAAS阻害薬の第一選択として位置づけ - 日本循環器学会 2025
HFrEFでACE阻害薬/ARBからの切り替え:Class I, Level B-R
「基本となる4種類の薬剤」の中核として推奨
かつてACE阻害薬が30年以上君臨した心不全治療の王座。今、その座はARNIへと引き継がれました。心血管死20%減少、心不全入院21%減少という圧倒的な成績は、単なる薬の進化ではなく、心不全治療のパラダイムシフトを意味します。
日本での新時代の幕開け
2020年8月、世界から5年遅れて日本でも承認されたエンレスト。しかし、その後の普及は驚異的でした。承認からわずか5年で年間10万人以上が使用する標準治療薬へ。「安定しているからこそ切り替える」という新しい治療哲学が、日本の心不全診療を変えています。
日本での保険適用と実臨床での位置づけ(2025年現在)
- 保険適用:慢性心不全(HFrEF)に対して保険適用
- 薬価:先発品のみ(ジェネリック医薬品はまだ存在せず)
- 処方制限:循環器専門医以外も処方可能となり、プライマリケアでも導入が進む
- 薬剤師の役割:36時間washout期間の確認と併用薬チェックが安全な導入の鍵
- 年間処方患者数:10万人以上(2025年時点)
特筆すべきは、日本独自の慎重な導入戦略が功を奏し、血管浮腫などの重篤な副作用報告が極めて少ないことです。薬剤師による服薬指導の徹底と、36時間ルールの遵守が、安全性確保に大きく貢献しています。
適応拡大への展望 - HFmrEFとHFpEFへの期待
現在、エンレストの主戦場はHFrEF(LVEF ≤40%)ですが、心不全患者の約半数を占めるHFpEF(LVEF ≥50%)への適応拡大が期待されています。
2025年ガイドラインでの心不全タイプ別推奨度
- HFmrEF(LVEF 41-49%)
Class IIa推奨 - 「使用を考慮すべき」
PARAGON-HF試験のサブ解析で有効性が示唆され、積極的な使用が検討されています。 - HFpEF(LVEF ≥50%)
Class IIb推奨 - 「使用を考慮してもよい」
全体では有意差なしも、女性患者や駆出率が境界域の患者では有効性が期待されます。
今後のリアルワールドエビデンスの蓄積により、これらの推奨度は上方修正される可能性があります。特に日本人のHFpEF患者は欧米と病態が異なることから、日本独自のエビデンス構築が進められています。